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ネタバレ?ダンケルクでのドイツ・その後のイギリス・フランスは?

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↑パリでのドイツ軍。ダンケルクの戦いの後、パリはドイツの手に落ちた。

こんにちは、六郎です。

今回はネタバレ…(^_^;)なんでしょうか?映画の内容はほとんどありませんが、史実でダンケルクの戦いの後フランスは、イギリスはどうなったのか?

ダンケルクの戦いの時ドイツはどのように考えていたのかをご紹介。






ダンケルクの戦いの後のフランス

ダンケルクの戦いは1940年5月24日から6月4日に行われたが、
連合軍の脱出したダンケルクを制圧したドイツ軍はフランス首都パリに進撃。

主力部隊を失ったフランスにドイツ軍を止める力は残っておらず、

6月10日フランス政府はパリを無防備都市として放棄。
同日イタリアが勝ち馬に乗るべくフランスに宣戦布告。

6月14日ドイツ軍パリに無血入城。

6月21日フランス政府はドイツに休戦を申し込む。

1940年6月22日ドイツ・フランス停戦協定が結ばれた。

ドイツ軍がフランスへ向けて侵攻を始めたのは1940年5月10日。

第一次世界大戦で4年の歳月をかけてできなかったことを、第二次世界大戦のドイツは6週間程で終わらせた。

 

この休戦協定でヒトラーは第一次世界大戦でのドイツの敗北の復讐をした。

↑第一次世界大戦のフランス元帥フォッシュの像を見るヒトラー(中央の腰に手を当てている人物。)

右が調印式が行われた食堂車両

交渉の場所を第一次世界大戦で休戦協定を結んだコンピエーニュの地を指定。

第一次世界大戦の休戦協定を交わした列車の食堂車を博物館から引っ張り出して用意。

ヒトラーが座った椅子は、第一次世界大戦の勝者フランス元帥フォッシュが座った椅子だった。

 

休戦協定によりフランスはパリを含む北部、西部をドイツに占領された。

↑色のついていない部分がヴィシー・フランスの国土。
緑が勝ち馬に乗ったイタリア、残りがドイツ影響下となった。

フランスはイギリスなど他国に亡命したフランス人の「自由フランス」として連合軍に加わる者

首都をヴィシーに置きフランス本土に残った「ヴィシー・フランス」に分かれた。

ヴィシー・フランスは親ドイツではあるが枢軸陣営には入らず、中立国になった。

枢軸入りしてしまうとドイツはヴィシー・フランスを連合軍から守る必要があるので、敵にならない、敵を通さない中立国にした。

ダンケルクの戦いの後のイギリス

黄色:カレー 赤:ダンケルク

ダンケルクで脱出作戦が実施される中、ダンケルクの西側ではドイツ軍の侵攻を阻止すべくカレーの町でイギリス軍が防衛を行っていたが、カレーのイギリス軍を救出することは出来なかった。

 

フランスが降伏するとドイツ空軍によるイギリス攻撃。
「バトル・オブ・ブリテン」が始まった。
⇒スピットファイア救国の理由

ドイツ海軍は強大な艦隊を持つイギリスを倒す方法として、イギリス海軍と正面からぶつかるのではなく、

U-ボート(潜水艦)による輸送船攻撃でイギリスを物資不足に陥らせるべく行動した。

↑U-ボート・ブンカーと言われる潜水艦基地。

ドイツ軍は占領しているフランス海岸に多数のブンカー建造した。
空襲に耐える分厚い鉄筋コンクリートに覆われた強固な建物の中でU-ボートは整備を受けることができた。

ドイツのダンケルクの戦いでの内情

そもそも何故、ドイツ軍はダンケルクを自慢の戦車隊で攻撃しなかったのか?

実はダンケルクの戦いの前に連合軍の反撃「アラスの戦い」があり、反撃作戦自体は失敗だったのだが、
連合軍が反撃してきたことに、ヒトラーは不安を覚えていた。
更にヒトラーに次ぐナチスNo.2の空軍元帥ゲーリングが「空軍だけで連合軍を撃破できる」と主張した為、

ヒトラーは陸軍に進軍停止命令を出してしまった。

↑1944年6月、ダンケルクで脱出した兵士は英仏軍やアメリカ軍と共にフランスに帰ってきた。

停止命令は多くのドイツ軍人が司令部の判断ミスだと認めており、ダンケルクで救助された兵士がアフリカで、44年の連合軍のフランス上陸作戦でドイツ軍の前に現れることになった。

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今回はここまで、
ご閲覧ありがとうございました。

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