こんにちは六郎です。日本の歴史に大きな影響を残す太平洋戦争。
でも…指揮官って誰知っています(´・ω・`)?
山本五十六は知っていても、途中で戦死していますし山本五十六の後は誰が指揮執ったの?
と言う訳で今回は、日本海軍の要職である連合艦隊司令長官を務めた山本五十六を含めた4人の提督をご解説。
連合艦隊については↓で解説してます。(艦これ言ってますが艦これネタはアイキャッチ画像くらいです)
艦これから入る史実【連合艦隊】とは?司令長官や主な旗艦等ご解説
山本五十六・真珠湾攻撃を立案した反戦派
山本五十六(やまもと いそろく)
26,27代連合艦隊司令長官(1939年8月30日~43年4月18日)
真珠湾攻撃の立役者として太平洋戦争どころか日本海軍の中で最も有名と言えるお方。
ところが、駐米武官としてアメリカの国力を現地で見てきた人物であり、日本とアメリカでは勝ち目が無いことを理解しており開戦には反対の立場だった…
しかし皮肉にも対米戦の指揮を執ることになる。
真珠湾攻撃では大戦果を挙げるものの、ミッドウェー海戦での大敗、ソロモン諸島の苦戦と旗色が悪くなり始め最前線の視察で訪れていたソロモン諸島ブーゲンビル島上空で乗機が撃墜され戦死した。(海軍甲事件)
赤:真珠湾 青:ミッドウェー海戦(もっと北) 緑:ガダルカナル島
ピンク:珊瑚海海戦 黒:南太平洋海戦 黄色:ブーゲンビル島
戦争回避に尽力し、真珠湾攻撃に対してもアメリカとの交渉が進めば中止するよう命令しており、攻撃すべしと主張された際に、
「百年兵を養うは、ただ平和を守るためである」
と軍隊の真理とも言える名言を残しており確固たる信念をもった稀代の巨星と言える方。でも身長は160cm。
古賀峯一・苦境の大艦巨砲主義者
古賀峯一(こが みねいち)
28代連合艦隊司令長官(1943年4月21日~1944年3月31日)
海軍甲事件にて山本五十六が戦死した為、横須賀鎮守府長官から連合艦隊司令長官に任命された。
山本五十六と同じくアメリカとの開戦に反対の立場であり五十六とも親しい仲だった。
しかし古賀長官は大艦巨砲主義者であり米主力艦隊と艦隊決戦を挑もうと計画していた。
ところが米軍の反攻が始まり南太平洋、中部太平洋の島々を奪還され艦隊決戦を行う機会を得られず、移動中に搭乗機が悪天候で行方不明になり殉職した。(海軍乙事件)
更に海軍乙事件では不時着した2番機の乗員が捕虜になり重要書類が米軍に渡ってしまった。
豊田副武・正念場で就任するも…
豊田副武(とよだ そえむ)
29,30代連合艦隊司令長官(1944年5月3日~1945年5月1日)
任命された44年の5月ではすでに戦況は暗雲が立ち込めており、就任早々に連合艦隊旗艦を武蔵から軽巡洋艦の大淀に変更。
1944年6月に起こったマリアナ沖海戦で日本は「大鳳」「翔鶴」「飛鷹」の3隻の空母、多数の航空戦力を失う大敗を喫してしまい。
9月には連合艦隊司令長官の将旗も大淀から慶応義塾大学と陸上に移る程に状況は悪化。
10月のレイテ沖海戦で艦隊を組むことすら困難になるほど艦船を失い太平洋戦争の勝敗は決してしまう。
と言うかモノ凄く正念場なのに陸軍が大っ嫌いって…。
小沢治三郎・才有れど艦無く、油なく…
小沢治三郎(おざわ じさぶろう)
31代連合艦隊司令長官(1945年5月3日~)
最後の連合艦隊司令長官。
艦隊指揮官としてマリアナ沖海戦、レイテ沖海戦を現場で戦い連合艦隊司令長官に任命された。
大将への昇格を断り、中将のまま連合艦隊司令長官となった。
45年の5月ともなると損傷した艦も修理できない、艦に問題がなくても動かす燃料もない状態だった。
しかし終戦にあたり、
「死んでしまっては誰が責任を取るんだ」と自決を諫めてまわり、終戦の混乱に対処した。
豊田提督とは逆に陸海軍仲良くすべきと公言していた。
部下からもアメリカ軍からも評価が高く、戦後は貧困の中で従軍者の支援団体を作ったりしたりしたが、アルコール依存症だった提督。
まとめ
連合艦隊司令長官ってカッコイイ名前の役職だし結構聞くけど、山本五十六さん以外の方だと初めて聞いた名前が多いのでは?
「連合艦隊司令長官」「海軍大臣」「軍令部総長」が日本海軍の3大役職だったけど、連合艦隊司令長官が一番知名度も人気もあった。
ちなみに、「その時歴史が動いた」の山本五十六回はマジでオススメ。機会あったら是非見てm9(゚´Д`゚)゚
今回はここまで、
ご閲覧ありがとうございます。