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【占守島の戦い】終戦記念日8月15日で終わらなかった戦争

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占守島(しゅむしゅとう)の位置

(上がカムチャッカ半島横の少し大きい島が幌筵島(ぱらむしるとう)

8月15日日本人なら誰でも知っている終戦の日。しかし、戦争は終わっていなかった。いや、その後に起きた戦いがあった。

後の日本に大きな影響を与えているのに、余り聞くことのない戦い。日本人なら知っていて欲しい出来事。今回は「占守島の戦い」をご紹介。

占守島とは?

占守島(しゅむしゅとう)とは、千島列島北東端の島。南西から北東へ30Km、幅は20km程の島。
すぐ上はロシアのカムチャッカ半島。すぐ横の少し大きめの島は幌筵島(ぱらむしるとう)
北部に砂浜がある程度で、ほとんどが崖に囲まれている。
↑占守島の海岸。奥の島は幌筵島
夏でも摂氏15度ほどで濃霧が覆い、冬はマイナス15度で吹雪に覆われる日が多い。
1855年ロシア領になるが、1875年に「樺太・千島交換条約」により日本領に、以後ロシアに備え日本軍が駐屯。

日本の降伏とソ連の思惑

時代が進み1945年8月15日、日本が降伏。第二次世界大戦が終戦となる。
しかし、
1945年8月18日午前2時半。突如ソ連軍が占守島に上陸を開始。
占守島の日本軍と戦闘になった。

 

1945年2月の「ヤルタ会談」にてソ連は樺太、千島列島を占領することが決められたが、ソ連書記長スターリンはアメリカとの冷戦に備え、北海道すら占領せんと画策したのだった。

占守島の戦い

8月15日の終戦をもって武装解除をしていた日本軍であるが、「自衛のための戦闘は許可する」との命令も受けていた為、上陸してきたソ連軍に速やかに反撃。
しかし、続々と上陸するソ連軍に要所の四嶺山は全滅する部隊がでるなど危機的状況に陥っていた。

 

そこに精鋭の戦車第十一連隊(十一は「士」とも見えるので士魂部隊と呼ばれていた)が救援に現れる。

 

第十一連隊の指揮官、池田末男大佐は出陣前に「赤穂浪士となって恥を忍び後世に仇を報ずるか、それとも白虎隊となり民族の防波堤として玉砕するか」と部下に問い、全ての部下が玉砕を選択。

 

太平洋では弱い弱いと言われた日本戦車であるが、今回は違った。
ソ連はドイツとの戦争で大型船舶を造ることが出来ず戦車を持ってくることができなかったのだ。

↑日本軍主力戦車・九七式中戦車 チハ

いくら弱くても戦車は戦車。歩兵では止めることなどできず、戦況は逆転。
池田末男大佐は四嶺山の奪還に成功。
しかし乗車していた戦車が攻撃され炎上し戦死。

 

それでも各部隊はソ連軍を海に追い返し始め、日本政府もアメリカ軍のマッカーサーを通して停戦を呼びかけるがスターリンは黙殺しつづけ、戦いが終わったのは8月21日だった。

戦いの後…

ソ連軍が大きな被害を出し、「8月19日はソ連人民の悲しみの日」とも言われたが、占守島の戦いは日本軍の降伏で幕を下ろした。

 

スターリンの北海道占拠の計画は出だしの占守島で躓き、現在も問題になっている北方領土を占領したものの、北海道にはすでに米軍が駐屯していた。
また日本軍が戦っている間に缶詰工場などで働いていた民間人を北海道に避難させている。

 

しかし、占守島で降伏した日本軍はシベリアに抑留された。

まとめ

日本軍というと悪いイメージがあるが、本当に国の為に戦った人たちがいる。

 

占守島の日本軍は玉音放送を聞き武器を捨てていたのに、日本の危機を救うため戦った。
彼等がいなければ、ドイツや朝鮮半島のように日本は東西の陣営に分割支配されていたことは間違いない。

 

現在彼等の意思を受け継ぎ陸上自衛隊第11戦車大隊の戦車には「士魂」の文字を入れている。

 

今回はここまで
日本の終戦の日は8月15日ですが、彼等の事を覚えていただければ幸いです。
ご閲覧ありがとうございました。

 

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